嘔吐学

vol.1 ユー体、後ケイ


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1. 企画概要

DM-1 DM-2

嘔吐学 vol.1「ユー体、後ケイ」

会期

2020/3/11(水)- 2020/3/22(日)

13:00 - 19:00

会期中無休

会場

WALLA(東京都小平市仲町615-29)

レセプション

2020/3/15(日)18:00-21:00

→COVID-19感染拡大防止のため中止


メインビジュアル

カワイハルナ

テキスト提供

渡辺瑞帆

企画

吉野俊太郎

「嘔吐学」とは、二人展の連続企画です。

本企画ではそれぞれお声がけする2名に、制約付きの展示空間における二人展に挑んでいただきます。


「嘔吐学」というタイトルは、展示者や展示物ではないものから展示自体が干渉されていく様子を不快なもの=ノイズNoiseとして捉えたところから発展し、決定しました。Noiseとは一説では、古ギリシャ語のNausia(船の-病)などの「船酔い」を意味する言葉が由来であると考えられており、現在の「吐き気」の英表現Nauseaへとも関係する言葉です。


サルトルは著作『嘔吐(La Nausées)』の中で、主人公ロカンタンのあらゆるものへの吐き気の苦悩を描写しますが、これは個の唯我を脅かす客体の存在に、無限に嫌悪感を抱き、嘔吐として表現してしまうという話にも解釈できるだろうと考え、本展示における展示者や展示物などにとっても同様に、ある「吐き気」を抱き続けながらの展示体験になるだろうと推測しています。


今回の第一回での条件は「作品のある展示室に入れない」というもの。会期中の鑑賞者は窓から、あるいは、展示室に隣接する和室から、柵を越えられないかたちで、作品を鑑賞するという事態になります。絵画作品であれば近づいて観ることができなくなるかもしれないし、彫刻であれば後ろにまで回り込んで観ることができなくなるかもしれない。これらの制約を事前に知らせたうえで、笹野井もも・村松大毅の両名に二人展を展開していただきます。


2. 展示会場の様子

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Up to here:Photo by NOBODY

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Photo by Ujin Matsuo

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Photo by Ujin MatsuoPhoto by Ujin Matsuo


3. 展示内テキスト『霧のあなた』

会期中には、舞台美術 / 建築家の渡辺瑞帆さまにお寄せいただいた以下のテキスト『霧のあなた』を会場内にて公開させていただきました。このテキストは「導入文」として、展示の準備期間序盤に作家両名にお渡ししたものです。→詳細はこちら

 

日付過ぎた頃、10万円の現金と、期限切れのと数ヶ月先のと、合わせて6枚の振込用紙を持って、車に乗る。さすがに冷えるようになってきたし、暗くて、誰もいない。慎重にアクセルを踏みながら、デフロスターに切り替えるが曇りがとれず、ワイパーを動かしてみたり、赤信号で眼鏡を拭いたりしたが晴れない。ああ、これが霧か と、道半ばまできて漸く、ぼやけた視界に納得する。何か大きなものの中にいるような感じがした。

パスタを選んで振込用紙と一緒にレジで出すと、枚数に面食らったのか、自分で数えてくれ とわたしに言いながら、初老の男がパスタを温める。6枚ですよ、と言っても男はレンジの前から動かず、こちらを諭すような動きさえして、パスタが温まるのを見守った。それを袋に収めてから、枚数を確認してやっと金額が打ち込まれたので、現金の束をだす。男はなぜか狼狽してもたもたと処理をしたが、最後にはまるでお得意様と言わんばかりの猥雑な表情でわたしを見送った。

涙ぐむことはなかったが、冷えたパスタを温め直して食べた。

mizuhowatanabe


4. アフタートーク

話し手: 笹野井もも村松大毅 + 吉野俊太郎(本展企画)

 

fig.0-外観

会場外観

吉野俊太郎(以下吉野) どうも、企画の吉野です。このトークでは、展示に参加してくださった作家の笹野井ももさんと村松大毅さんに、今回の嘔吐学vol.1 「ユー体、後ケイ」を振り返るというような形で、話していただきます。


先ずは…。『嘔吐学』という展示の大きな特徴は「展示者に条件を与える」という点です。

展示空間に、建築的な制約を最初に設定して、その制約の内容に見合った展示者お二人としてお呼びして、二人展を展開していただくというのが、今回の企画の内容になります。

で今回は「展示室に鑑賞者が入ることができない」というような設定で、展示室には本来ドアが付いていて入ることができるはずの部分を窓に変えて*fig.1 、でプラス、隣の部屋からーー隣には和室があるんですけどーー和室から展示室に入るための入り口のところに柵を設置して。それぞれ作品との距離や方角を制限する。で、じゃあそこから二人で計画して、どうにか二人展をやってくださいという風にお願いをしました。

内容はこんな感じの説明でいいんですかね?(笑)


笹野井もも(以下笹野井) はい。

村松大毅(以下村松) ありがとうございます、よろしくお願いします。

fig.1

fig.1 会場風景:写真左の仮設の窓からも中を覗くことができる。


-1. 展示での取り組みについて

吉野 では、今回の嘔吐学という企画内容に関して、どういう態度で向かい、どのような処理を行おうとしたのかというようなことについて、お二人から話していただきたいんですけど。

僕から最初に、「こういう『嘔吐学』っていう…」ーーその時は確かタイトル決まってなかった気がするんですけどーー「ちょっと制約を設けてっていう、少しやりづらいような展示内容をやりたいと思っていて、お二人に参加していただきたいって思ってるんですけど」っていう風に言われた時に、その時にどう考えて、気持ちの移り変わりがあったのだとしたら、どのように変わっていったのか。そして今回の展示に決着して行ったのかを、ちょっと聞かせていただけますか。


村松 どっちから…(笑)

笹野井 どっちからにしますか…村松さんどうぞ…(笑)


村松 じゃあ。僕は…そうですね、最初吉野くんから企画の概要を聞いた時に、僕自身普段の制作で、なんでしょうね、いわゆる絵を一応作っているんですけど、一般的に絵を鑑賞するやり方をこう、なんだろうな、違う方向からやっていくというか、見方みたいな物を扱って制作をしていて。

まあ大学の制作だと、仮設の天井を立てたりだとか(大学院修了制作/2019*fig.2 )、もともと作品を設置するための建築的な構造自体にも手を加えたりっていうことをやっていたので、単純にその、もともと興味あったというか、やってたこともあって、聞いた時は面白いなって思いましたね。で、それが、なんていうんですか、自分でその状況を設定してるんじゃなくて、他人から設定されてって上で自分が対応するっていうのは、うん、なんかわくわくしたんで…。そんなに「ウェーっ!」っていうか、危機反応みたいなのはなく、単純に面白そうだなっていう感じでやりましたね。


で、変化…実制作においては…なんだ…企画の内容で悩んだっていうよりは、二人展を構成、二人展っていうことでなんか色々…なんだろう、迷ったりすることは多かったかもしれないですね。だからそこも二人展っていう、まあ“嘔吐”の要因になるような、ノイズがあったっていうのは。そこは結構、二人展初めてっていうのはあったんですけど。

fig.2

fig.2 参考:村松大毅 大学院修了制作展の様子(2019)/ 手前の空間に新たな天井が仮設されている。

吉野 二人展初めてだったんですね。

村松 二人展はそうですね、初めてかなあ。


吉野 展示の最少人数は?

村松 最少4人とか…。


吉野 ふむふむ。グループ展と二人展とか、相当感覚違うはずですもんね。


村松 そう2人…二人展になると、どこを譲ってどこを譲らないかとか、なんかより、密にやり合わなきゃいけないっていうか…。そこで色々、どうしようかなあって思うことはありましたね。そんな感じかな。


吉野 ありがとうございます。さっき言い忘れてたんでここで言っておきたいんですけど、制約を設けるっていうのは…。二人展とか三人展とか、展示をやる時には自分自身で決めていって、で自分で決めたルールなりキーワードなりに従って展示を組むっていうのがまあ自然な流れだし、そもそも外から決まってくるとかだと、例えばギャラリーに大きなガラスの扉があって…とかその程度。あと「なんか壁が黄色っぽい」とか、「床がセメントでできている」「木でできている」とかっていう条件の細かな違いに対してちょっと反応するぐらいで、本来展示は作られていく。

まあ最初に決められている物事っていうのが、極限まで少ないパターンの方が多くって、だからこそホワイトキューブっていうのは展示がやりやすいのだと思うんですけど。

今回の嘔吐学での「制約を設ける」っていうのは、展示に際して、最初に入ってくる外部からの規定をたくさん用意しておくっていうこと。だからその、外から勝手に持ち込まれてきたものに対して、反応しなければならない、どうにか処理をしなければならないっていうところで「本来だったら自分でできたはずなのに…」みたいなところでの気持ちとの差から、嫌悪感みたいなものをーーまず作者にとっての嫌悪感っていうものをーーこの展示企画、ルールを設けるっていうことで発生させられないかな、っていう風に考えてました。鑑賞者の嫌悪感っていうのも合わせて考えていたところではあるんですけど、まあそれはまた後で。


笹野井さんはどうですか?


笹野井 そうですね…。最初、その企画を吉野さんが、まだ嘔吐学って名前は付いてなかったけど、そういう「制約があって、展示する人の、制約によっては、とか人によっては、すごく嫌がるような展示を考えている」っていう。でそれを「展示者として、参加どうですか?」という話をいただいた時に、なんかもうそれって「意地悪な企画を考えています、今からあなたに意地悪なことをします」みたいな(笑)

宣言されているんだけど、なんか「嫌だな」とは思わなくて、村松さんが言っていたみたいに、面白いなって思って。で、なんだろう、その意地悪に対して、吉野さんが考えていることに対してどうレスポンスするかみたいなのも、すごい面白いなって思うし、展示する人に対してのそういう制限もあるし、鑑賞者に対しての制限もあるから、その鑑賞者に対しての“意地悪”には、吉野さんと一緒に私も加担できる…楽しさもあるなと思って。すごい加担する気満々みたいな気持ち…にはなって(笑)割とノリノリだったんで。


だから…なんか一個のゲームっぽい感覚というか、お題が出されて、それをクリアするというか、それにどう対応するかを問われている感じがあって、で、それってイチから「こういう展示をしたい」で展示を組むっていうよりは、自分の制作のステートメント的な部分から「こういう展示をする必要がある」って発展していくのが結構あるので、なんかポンと出てきたところに自分もそこに参加する理由があるなら、それに対してちょっと動いてみようかな、みたいな。今回はそういう動きだったんで、なんか普段の展示をやる時とは違うきっかけなんだけど「そういうことをしてみてもいいかな」みたいな気持ちがあって、ほんと面白がっていたんですけど…。


で実際やってみて。これまで二人展を一応したことはあるんですけど、二人展だけじゃなくて個展だけでも、場所と自分の企画を釣り合わせるところとかで自分がこのくらいコントロールしたい、向こうからはこれくらい制約がある、みたいなところを擦り合せるのにすごいストレスがあったんですけど、今回なんかその、自分のコントロールしたいみたいな気持ちとか、ここは踏み込まれたくないっていうバリアをする気持ちみたいなのが、なんかちょっと薄れていたというか…あんまり発動しなくて。自分が思い描いていたり経験してきた二人展から、ちょっと違う二人展になったなって気持ちがしました。


吉野 二人展としてはだいぶ特殊なことをさせてしまっていますね、今回は。

なんかその「加担した」っていうのが、今回のvol.1の中では企画者的に真剣に捉えなければならないなって思うところはあって。僕は企画者なので、二人に対して「これから意地悪をするよ」とか「これから制限をかけるっていうことをするので、答えをどうにか展示という形で出してください」とか、半ば大喜利っぽいし、大喜利にしてはちょっと意地悪というか。だって笹野井さんは彫刻で、村松さんは絵画で、それぞれに人間が、鑑賞者がどういう様にみるかっていうのを作品内でこれまでコントロールしようと、あるいは人間の視点を逆手にとった構造を作品の中に取り入れるっていうのを僕はお二人の作品から読み取っていたりするんですけど、そういうことを自由にしづらくなってくる企画だとは僕は思っていて。


これまでやってきた「人間の視点を利用する」っていうのができなくなって、もっと窮屈な状態で制作と展示をさせることになるなと思っていたんですけど、結果的に今回展示が終わって、会期中にチョロチョロ話していたことも考えてみると、「“ここ”からしか見ることができない」っていう制約をまるで自分自身が、笹野井さんと村松さんが最初から考えていたかのように、それを自分たちで決めたかのように逆手にとってーー今回は大きく二方向、細かく言えば三方向から見られるようになっていましたけどーーその限られた方向からしか見られないことによって発生させられる仕組みみたいなものを用意してたなっていうのが、僕は正直今回はちょっと優しくしすぎた(笑)


自分の側に笹野井さんと村松さんが来ることに対しては別に抵抗もしなかったし、それでもよいと思ってやっていたんですけど、笹野井さんと村松さんがあまりにも仕掛け人的な立ち回りをしすぎた、僕がさせすぎたっていうところは、今回の企画として少ししくじったかなという風に僕個人は考えてます。一応鑑賞者として来てくださった方々に「こういう制限を…、(展示者に)こういう嫌悪感を持ってもらえるように…」っていう風に説明してはいるけど、結果的に笹野井さんと村松さんが僕と同じく仕組みを考える側に移ってしまったことによって、結果その嫌悪感を成立させるのが、僕はうまく行ってなかったなっていうのは思いますね。


村松 たしかに。対立的な構造には全くならなかったという…。


吉野 ほんとはね、僕自身は今回の展示の中では制約や制限を与える側として、映画の 『SAW』シリーズとかの話を結構してたんですけど、『SAW』の中に登場する「ジグソウ」のように、僕は憎まれるべき存在であり、制約を与えて「ゲームをしよう!」って面白がるような役回りで…。それで「ゲームをさせられる側」としてお二人が動いてくれて、それを場外から鑑賞者がどうにか覗き見るっていうのが僕が当初考えていた構造なんだけども、結果的にそうじゃなくなった感じですね…。


村松 うん、なるほど。そういえば特殊な状況が設定されている場所で展示したのって、あと僕何個かあって、まず一個目が2016年かな、美学校の「美学校ギグメンタ」っていうイベントの中で、当時美学校の生徒だった前髪さんっていう人がキュレーションした展示が「四谷ベッドルーム」っていうんですけど。それの展示の概要が、展示内にベッドがあって。そこに前髪さんが寝てるんですよね。寝てて、で突然起き上がって、電気をつけたり消したりするっていう展示で。


笹野井 それはもう「そういう風になっているから、周りで展示する」っていう?


村松 そう、周りで展示する。だから、そうすね、だから平面と、彫刻…彫刻じゃないか、いわゆる立体も、普通のモノとして展示してる人が他にいて。で、前髪さんがパフォーマーとして、その、作品って言っていいのかわかんないんですよね、その状況を作ってたんですけど、元ネタは何もない展示室のライトを点けたり消したりする作家(Martin Creed《Work No. 227, The Lights Going On And Off》(2000))の、なんだっけ、の作品で。

特に僕なんか絵を設置してたんで、あと映像もいたか。その…電気が消えると、平面の人は本当に見れない(笑)で、映像の人は逆にはっきり見えて。で、点くと映像の人が見えなくなって、とか。


その行為が、前髪さんの意思、意識でやられているっていうのが、なんだろうね、展示室中、そこはすごい敵対関係にあったというか。見に来てくれた人の反応だと、他の展示者は前髪さんのパフォーマンスの道具として扱われているから、っていう意見もあって。それはあの、展示期間中にとある来場者が吉野くんに話してた「もうワンレイヤー、吉野くんの仕事が介入してくるのがいいかな」っていうのを聞いた時にちょっと思い出してて。


吉野 条件があって、条件の上に展示作品を載せたっていうのが今回の内容だったけど、その上にもう一層、ルールに重なるポイントっていうのをわかりやすく露骨に表出してしまうことによって、作品は逆に見づらくなるかもしれないけど、展示企画としてのコンセプトや意図は明確になってくるっていう。


村松 そうそう。僕らはやっぱ“後出しジャンケン”できる立場だったから、ね。

それはなんとか、“ジャンケン”のルールを知っていればなんとか対応できたっていう(笑)

吉野 “後出しジャンケン”できないとフェアじゃないですよね~。


村松 まあね。だから笹野井さんと話してたのは、まず状況は知ってると。入れませんよっていう設定は知ってて、搬入日に行ったらその状況は出来上がってて、僕らはただ設営するとか。だからなんていうんだろ、入れないってことは知ってて、僕らはそれを想定していろいろ持ってくるんだけど、展示室に入った瞬間に既に条件が作られている状況だったら逆になんか反応が違ったかな…。まあ今回スケジュール的な問題があって、その窓の設置も一緒にやったみたいな感じになっちゃったもんね。


吉野 本来搬入は2日間だったんだけど、1週間欲しいっていうふうにお二人から連絡貰ったので…。


村松 そういう意味でも、優しかった(笑)

笹野井 たしかに(笑)


fig.3

fig.3 会場平面図

吉野 なんか自分自身アンフェアなことをやっているという自覚はすごくあって、むしろその無自覚にアンフェアな状況が生まれてしまうキュレーションとか、企画って物事自体に対しての…。

僕は「それってすごい厭なこと、厭なポイントあるよね」っていうのを、わかりやすく自分自身でシュミレーションしてみて、で他の人にも、僕がわかりやすくシュミレーションしてることによって、企画やキュレーション…あとは展示自体の気持ち悪さや厭らしさなんてのを表す内容にできたらなと思っていたので…。だから自分は自覚してるんですよ、めっちゃ厭なことをしてるって。だからこそーー僕はお二人の作品嫌いだから呼んでるわけでもないしーーそうするとアンフェアな状況の中でも少しフェアになってそうな、なってそうに見えるような譲歩をしていかなければいけないというところはあったので。

企画準備してる最中とかでも、お二人が本来展示室、WALLAは展示室があって、和室があって、隣に台所があってっていうような間取り*fig.3 だけれども、展示室の中で展示をしてくださいっていうのが今回最初から企画の中で決めてることなんだけれども、お二人が仮に「和室の方で展示をしたい」っていうふうに言い出したら、僕は別にダメとも言わないし、それができるように取り計らうつもりだったし、なんなら確か「和室で展示したいとか、他で展示したいとかあったら言ってもらってもいいですよ」みたいなことも言ってたかもしれないけども(笑)ちょっとそれは甘すぎた。


言われたら「ダメ」と言わないで受け入れていく準備はいろんなところでしてたんですよ。レギュレーションとして用意している柵や窓を破壊するとか撤去するみたいなところに至らなければ、そこで何をやってもらっても構わないという風にとりあえず考えようと。

で、そこですごいギリギリを攻められて、例えば「もうWALLAで展示しません」みたいな(笑)WALLAでも展示するんだけど、WALLAとは別会場を私たちは用意したのでそこでも展示を作品を展示しますみたいなこと言われたら、ちょっと考えちゃったりはするかもしれないけど(笑)


制約が働いている状況下で「こういうことをしたい」とかっていうアイデアであれば、そこはあくまでフェアにというか。フェアにやって、アンフェアなのは制約の部分でっていう様に収めておきたかった部分はあったので、それは相当考えたりとかしてました。


あとは…ずっと“制約”って喋ってるのはまず一つ目、「建築的な制約」っていう風に僕は言っちゃってるんですけど、展示室に入れないっていう鑑賞者の動きの方をコントロールして、作品の見方っていうのを固定してしまうことによって、じゃあどういう風に作品を見てもらうのか、見える様にするのかをお二人にもう一度考えてもらうっていうのがその「建築的な制約」っていう風に呼んでいる部分なんですけど。で、もう一個僕が考えていたのは、渡辺瑞帆さんっていう建築をご専門とされていて、今舞台美術などをやってらっしゃる、青年団で演出部に所属してらっしゃる方にテキスト*をお願いすることで。


どういうテキストをお願いしたかっていうと「『嘔吐学』ってこういうことをやります」「企画の第一回は展示室に入れないっていうもので、お二人は、笹野井さんと村松さんはこういう作品を作ってる方ですー」っていうのをざっくりと説明して、今回vol.1に関する文章っていうのをちょっとなんでもいいので書いてもらえませんか、と。それは形式もなんでもいい、別に詩でもいいし、論文みたいなものでもいいし、別に批評文みたいなものでもいい、あるいは箇条書きとかの文章にもなっていない様なものでもいいです、っていう風にお伝えをして、結果的に、すごく短い小説のような、もしくはドキュメンタリーのようなエッセイのようなテキストが返ってきて。


あのテキストを、僕は最初“導入文”という風に呼んでたんですが、それは展示に対しての、展示を見るときに鑑賞者が読んで、それから展示を観るっていう導入文ではなくって。

僕がもともと考えていたのは、展示者に、作品を作っている最中、あるいはできれば本当は最初に「こういうテキストを用意しました。これは展示に関するテキストです。これを展示にきてくださった方々には読めるようにします。そこで作品を作ってください」と言うことによって、『嘔吐学』という企画内容を事前に知っている方が一回企画内容に反応して出してくださった単語や思想の部分を、また外から展示者に対して与えてしまうことによって、制約をもう一段階増やすことを、「言語的な制約」を増やすっていうことをやれるかな、という風なことを考えていました。で、結果的にどういうことが起きたかっていうと、お二人にテキストを渡してしばらくしてから、「展示室の中に渡辺さんのテキストも配置したい」という話があって。でー、できるだけフェアにというか(笑)


元々嫌になるはずの要素なんだけど、嫌になりすぎるような制限はしたくなかったので、じゃあ渡辺さんに確認をとって「どう使っても構いませんよ」というお返事をいただいたので、じゃあ「展示室に設置しても大丈夫そうです」っていう様に伝えたら、テキストが外から見えるように。その外からって言うのは、道路があってーーWALLAは道路に面していてーーその道路とWALLAの展示室の間を隔てている窓ガラスの部分に、ミラーシートと共にテキストを貼るっていうのがお二人のやったことですね。*fig.4

fig.4

fig.4 窓のテキスト

あれはどういう意図で結局ああなったんですか?もともと奥の壁の方に貼ってとか、ちょっと読めるような感じにするくらいでと仰ってたと思うんですけど。


笹野井 うーん、なんだろう。なんかすごく、渡辺さんの文章を吉野さんから渡された時に、これは展示企画の導入文として、来場者に読めるようにするものですっていう様に聞いて、文章の内容も、なぜこれが来たのか…という引っ掛かりがあったりとか、導入文ってなんだろうとか…なんかひっかかったりして。

結構展示の内容とかは話が進んできてた時にその文章が来たので、その文章に展示や作品の内容が寄っていくのはなんか違うのかなーと思って…、その文章にちょっと物語っぽいような、なにかのワンシーンぽいような内容だったので、そこに作品とかが寄ってくのはそれはなんか違うかなーって思って。でもそれをまったく無視するのも違うかなーとは思って、そしたら展示の構成、空間の中に文章がなぜかいる、みたいな方が良い距離感なのかなというのは思ったりしましたね。わたしは結果的にあの文章のオマージュのドローイングみたいなのを描いたんですけど(《10万円 「霧のあなた」より》*fig.5 )、でもメインの展示空間に、制約が設けられている展示空間に出す作品は文章に寄っていかなくて良いかなと思って。でもあの文章があることで展示の作品や空間を見るときと、文章を読んで見た時との違いがあるのは面白いかなと思って。なんかぶつかる感じがする?プランとしていた作品とか展示構成の感じと、その文章にすごくギャップがあったから、なんかそこで、展示空間に文章があることですごくぶつかる感じが鑑賞する人からも見えるかなーとは。

fig.5

fig.5 笹野井もも《10万円「霧のあなた」より》(2020)

吉野 あのテキストだいぶ謎でしょうね。


笹野井 うんー。


吉野 来場してくださった方とかにも、「これ誰が書いたテキストなんですか?」とか、僕が「このテキストは渡辺瑞帆さんに書いていただいて…」って説明したら、「あ、これ吉野さんが書いた文章じゃないんですねー」とか。僕の配置的に、マップにも、そのマップの裏のところに、展示の概要の説明を載せて、でその上に渡辺さんのテキスト『霧のあなた』を載せて…。だから並び的に、僕の文章に見えなくもないというのは確かにあったんだけれども…。あのテキストが何者なのかもよくわからないし、展示の内容について説明しているわけでもなく、ただ何かボヤボヤといろんな物事に心が追いついてないような様子、届いてない様子が、かなり淡々と描写されているっていう内容のテキスト。でそれが、建物の外からも見えるようになっていて、なんなら展示室内を見ることをまるで邪魔しているかのように、ミラーシートが大きく窓に貼ってあって、その中央にテキストが貼ってあって。なんか自分自身の、自分たちの展示を見せたいのか見せたくないのかがよくわからないようなテキストと窓の使い方してたなっていうのが、僕が思ってたことですね。


展示配置の時は「僕はできるだけ口を出さないようにする」って何回か言ってたと思うんですけど、できるだけ何か言いたくっても言わないように、結構いろんなポイントで堪えたりとかはしてたところがあって、「これこうした方が良いんじゃない?」とか、やっぱり岡目八目だから言えるじゃないですか。何かしら言えるし、言いたくなっちゃうポイントとかもあって、でも言わないようにしてて。

あの展示に対しては僕自身は外的なものだっていう様に、だから僕は「あの作品なんですか?」と聞かれても正しい説明はできないし…で、なんかそんなメンタルの中で見てると「作品見せたいの?」みたいな、見せたいのか見せたくないのかわからないポイントがいろんなところにあって、作品を急に見えづらいポイントに展示したかと思えば、それこそ僕と同じ様に仕掛け人側に回ろうとする動きもあれば、見せるために…一応なんとなく四角い展示室だから…村松さんとかは自分で描いた絵を壁側に向けるってしなかったじゃないですか。


笹野井 うん。

fig.6

fig.6 笹野井もも《南へ》(2020)

吉野 全部窓側か、和室側。柵越しに見えるか、窓越しに見えるように設置してて「あ、そこはちゃんと見せようとするんだ」と思いきや、テキストを貼って、本来使えるはずの窓を塞いでしまったりだとか。あとは笹野井さんの場合であれば《南へ》*fig.6 ってタイトルのドローイングが、階段が展示室にちょっと出っ張っていて、だから斜めになっている。天井なのか壁なのかもわからない斜めのところに展示されていて、そこすごい見辛いから、和室からも見えないし、窓側から、道路側の展示室の外の方から見ようとしても一番離れているところだから見えないしっていう、ちょっと見えづらい状態で設置してるところもあって。

なんか展示室全体で、見せることへの方向性が、「よく見せる」と「あまり見せない」っていう二つが混ざり込んでいるのが特徴だったなっていう風に思ったりはしてました。


-2. 展示作品について

吉野 さて、作品の話とか、僕も気になるから聞きたいんですけど。

まず村松さんの作品で、ドラゴンの作品《Green dragon on the wall.》*fig.7 もだし、他の展示室の中にあった作品(《dewy》シリーズ*fig.8 )もレンガ調の、壁っぽいイメージがあると思うんですけど、あれってなんでああいう絵画を、しかも沢山、展示室の中を大体同じような、しかもちょっとモダニスティックな作品がバーって展示してあって、逆にそれ以外何もないみたいな状況なわけじゃないですか。あれはなんなんですかね?

fig.7

fig.7 村松大毅《Green dragon on the wall.》(2019)

村松 そうですね。まず展示室内の作品で言うと…。

そもそも「絵である」っていうことより「見る人の視線が反射する板、面であってほしい」「面を作ろう」って。で、僕は絵画ベースで制作をしてたし、今回もそこは全然疑問なくというか。「絵画をみる」っていうことについて色々弄っている人なので…。


壁のモチーフっていうのは、フレスコ画とか、僕壁画研究室っていうところにいるんですけど、レンガ、レンガの壁があってその上にモルタルを盛って、そこに描くんですけど、その支持体としても一番奥にあるのが壁だし、壁にかけてるから絵の画面より奥側に壁があるじゃないですか。っていう風に、自分の視線が反射する、一番奥に位置するものとして壁っていうものを選んだんですけど。特に今回の展示は見る人は展示室内に入れないから“見る位置”っていうのが大体で設定されちゃうじゃないですか。なんか普段の僕らが展示室内に入って、歩いて絵を見るのも…距離を自分で…近づいて画面のテクスチャーを見ることもできれば、遠くに離れて全体を見るっていう操作もしづらいっていうところからより、距離感っていうのが一定だからこそ、逆に一番奥に位置している面としての壁が様々な位置に設置してあったら面白いかな、っていうアイデアで展示した作品です。


吉野 なるほど。展示室の中での村松さんの作品って仕掛けが色々あって、奥にある絵と手前にある絵が同じサイズに見えるポイントっていうのをいろんなところに用意したりだとか、あと絵だけじゃなくて壁に貼ってあるミラーシートだったり。ミラーシート自身に輪郭的にピッタリ合うポイントみたいなのも用意してたりとかもありましたね。

奥にあるはずの壁が手前にきているかと思えば、手前にあるはずのものが奥に同期しちゃって、手前なのか奥なのかわからなくなるみたいな、絵画における画面内の奥行きどうのみたいな話をちょっと吹っ飛ばしてしまうような作品でもありました。


村松 そうですね。一番やりたかったのは手前にある小さい絵と奥にある大きい絵がある地点で見たら同じサイズの面として目に写るっていうことですね*fig.9 。物理的に鑑賞者から距離がある壁っていうのもあるんですけど、物理的には違うのに視覚的には同じような面として見えるっていうのが一番今回やりたかった。それは今思えば、視点が定められている状況だからこそできたっていうのはあるかな…。

fig.8

fig.8 村松大毅《dewy Ⅳ》(2020)/ 作品背面:笹野井もも《°》(2020)

fig.9

fig.9 村松大毅《dewy Ⅴ》(2020)

吉野 まさに逆手にとって。

村松 そうですね。


吉野 そうじゃないとポイントを自分でわざわざ作らなきゃいけないですもんね。

壁を支持体にっていうので納得するポイントがあって、今までも村松さんは芸大の学部生の頃から、パネルとかの支持体の、フレームがどんどん延びていって柱や壁に寄生していく作品とかありましたね*fig.10 。あとは、本来だったら絵画ってパネルがあって上に板なりキャンバスなりがあってで、その上に絵が描いてある。“蟹”が描いてあるみたいなものだったらば、上に描いてある表象の方が中心になるはずなのが、そのパネルの方が“蟹”の形とか、蟹を表す部分を奪ってしまうのようなかたちの作品、シェイプドキャンバスの異常なかたちをこれまで作っていたりだとか。とにかく支持体に対しての反応を身軽にやってらっしゃるなっていうのをこれまで思っていました。で今回急に、めちゃくちゃちゃんとした“絵”を描いてるんじゃね?みたいなところで最初びっくりしたんですけど(笑)

fig.10

fig.10 参考:村松大毅《肖像画付き挟◻︎型絵(旧式)》(2016)

あれが壁で、壁を支持体としてっていう話になってくると、パネルを使って、パネルを延長して壁に寄生させるみたいなことをやっていたことと、今回やっていることとしては、注目しているポイントとしては大きく変わることがないっていう風に感じます。今初めて聞いてみてそこはすごく面白かったです。


村松 いわゆるインスタレーション作品を作っている人だったらもしかしたら自然な感覚なのかもしれないんですけど…。例えば言葉で「これは作品」「元々ある白い壁は作品じゃない」という風に言葉で分けるとしたら、僕の今までやっていたことは「これが作品」っていうのがあって、それの効果として白い壁なり立っている床なりっていうのに波及していくようなものだったんですけど、今回は「これは作品」ってなってあの画面の、レンガが描かれている“絵”だけを見たら、全然そういうのはない。

だから与えられていた「視点が定められている」っていう状況が、最初にそれこそ“支持体”としてあったっていうのは、今思えば、普段やっていることとは逆に全然違うかな。インスタレーション的な人だったら関係、モノとモノとの関係っていうところで組んでいくから…そういう人からしたら普通の考え方だったかもしれないんですけど。


吉野 村松さんってこれまでの作品とかを見ていても、ドローイングをいっぱい描いてはいるじゃないですか。めちゃめちゃ描いてるし、嘔吐学在廊中も描いていたのを見ていましたけど、ドローイングを描くっていう「観るべき対象を自分自身で生成する」のとは別に、今までは観るべき対象としてもあんまり捉えられなかった支持体的なモノを、観るべき対象の方に挿げ替えていく…つまり関係性をひっくり返していくっていう仕事とで二つ、別々のことをしているような印象もあって。

描いている絵を作品内に取り入れて…っていうのもこれまでしてきてはいるのは知っているんですけれど、でも支えている支持体の部分にめちゃめちゃ特殊な構造が含まれていたり、動くマシーンのような見た目であったり、その間に謎のドローイングが、たぶんこの木で組まれている構造とは全く無関係のものなんだろうなみたいなドローイングが、いっぱい5枚10枚連なっているような作品とか観ていて、やっぱり支持体の部分と描かれているイメージをちゃんと切り分けて、使い分けて、別々のルートを辿らせて、最終的に別々のものとして一緒に展示するっていうのが今まで村松さんのやり方なのかなって思って観ていて。


今回ミラーシートを作品の要素として取り入れたりだとか、まあどこまで村松さんの作品で、ここから笹野井さんでとかはわからないですけど、村松さんの描いた壁状の、レンガが積み重なっているような絵を、支えている細い柱ーーあれも村松さんご自身で施工していたものですけどーーその柱が床と天井に突っ張るような形で、両端に楕円形のミラーシートが貼ってある板がくっついていて、その楕円形の中心にそれぞれ柱の先端がくっついているからこそ、ミラーの奥に柱が延長していくような見え方がある。それが仮設した柱の全てにくっついている*fig.11

fig.11

fig.11 村松作品を支える柱の末端

あの状態を観たときに、これまでイメージの部分と構造的な部分、支持体のようなところとで考え分けて、切り分けて作っていたように思えるものが、支持体の方が絵画で言ういわゆる“イリュージョン”みたいな方へ戻っていくように僕には見えたんですね。柱も支持体として考えれば、支持体が延長した先で、ミラーという光学的な現象の方に戻っていくように見せているっていうのが、もしかすると今後その支持体の方が、イメージへと還元されていくのかななんて鑑賞しながら思っていたりしたんですけど、蓋を開けてみたら、絵の方でも支持体の問題を扱っていたりだとか、とことんイメージに興味がない瞬間がある方だなって思ったりしました(笑)


村松 さっき話してもらったイメージと支持体っていうのはすごいわかりやすく言ってくれたなって思って。なんだろう…、「絵は、画面は、すごく強固なものとして、在る」っていう認識と、でもそれを観るためにはやっぱり絵をかけるための壁やキャンバスなどの支持体、あるいは保護するための額とか、そういうものがないと、すごく強固に存在している絵っていうものが観れないっていう弱さ。そういうところから画面外のところへ興味があって弄りつつも、まあでもイメージってものは“在る”から…って並走していったんですけど(笑)

僕の作品で《ここは海抜》*fig.12 っていう作品があるんですけど、その時から、より制作者的な興味からより鑑賞者として作品を観ている時の、鑑賞者としての立場から作るっていう眼を持ち始めて。

《ここは海抜》だったら、作品が設置されているこの建物の立っている場所が地球規模ではどれくらいの標高なのか~とか。っていうこと。そんなん観るときには関係ないんですが(笑)でも、どう影響するのかってことに興味があってやってました。

今回「作品の物質的構造の強さを担っていた支持体の部分がイメージに還元されていった」っていうのは、ある意味視線の、仮想している線そのものが支持体的な強さを持ったものとしてあったので、今回は実際のモノとしての構造の強さ、柱だったら床と天井にピチーっとなっている強さは中抜きにしてみたかったというか。仮想の線の強い構造と、イメージ、みたいな。っていうのはビジョンとしてあったかもしれないですね。

fig.12

fig.12 村松大毅《ここは海抜》(2019)

吉野 なるほど、そう聞くと「戻っていく」ってさっき言いましたけど、あながち間違いでもないんですね…。


村松 そう、間違いではないですね。戻っていく…透明化して一緒になっていった…っていうか。だけど、観てるとか、観ているっていう強さの方に仕掛けをしていくのは、今回より強くやれたかもしれないですね。


吉野 じゃあ今度は笹野井さんに。人物像に棒が突き刺さっている作品(《心を持ってかれちゃうよ》*fig.13 )と、蝋?パラフィン?


笹野井 パラフィンですね。


吉野 パラフィンで模った人間の頭が三つ、グチャってくっついている作品(《I,I,I》*fig.14 )が、それぞれミラーシートの貼ってある台座の上に載っている。で、展示空間の中にあの二つの人体を模った作品があって…片方だけとかだったらわかるんですけど、あの二体が共存しているっていうのがなんか不思議に見えているんですけど。それぞれの作品についてちょっとだけ説明してもらえないですか?

fig.13

fig.13 笹野井もも《心を持ってかれちゃうよ》(2020)

fig.14

fig.14 笹野井もも《I,I,I》(2020)

笹野井 それぞれの作品について…?


吉野 例えば、棒がブッ刺さってるじゃないですか。あれはなんで?(笑)


村松 (笑)

笹野井 (笑)


吉野 僕がこうかなって思っているのは、和室窓に貼ってあったドローイング《ずるいよ》*fig.15 のイメージと同じく…《ずるいよ》の中ではたしか“心”って文字が上を向いている人物の胸のあたりからギュンって、ギャートルズみたいな感じで伸びていて、ア、なんかわかるというか。「心がドキドキしている」っていう状態を、心臓が前に出たり戻ったりって示すアニメーション的な表現でもあるし、作中に「いつだってホームラン」って書いてあって、ボールが境界を飛び越えていくような動きがあったりとか…。

fig.15

fig.15 笹野井もも《ずるいよ》(2019)

とにかくフレームなり境界なりがあって、そこから飛び出ていくものに対して関心がおありなのかなっていう風に考えていくと、《心を持ってかれちゃうよ》で突き刺さっている棒、あれは物理的にはまあ刺さっているじゃないですか。おそらく最初に作った木彫人物像に後から棒を刺しているんだろうから。


笹野井 そうですね。


吉野 だからあの棒もなにか…領域を超えていくものとして用意しているのかなっていう感じには考えているんですよ。


笹野井 うんうん。


吉野 でもそうすると先っぽの方にひっくり返った人物のシルエットが、ピクトグラムみたいなものが描いてあって、あれはなんだ…?とか。その考えの中で、隣にあった《I,I,I》に行くと、急に主題が変わったように見えるんですよ。白い頭がギュってくっついていて。あれはどちらかというと結合双生児的な、領域不可分になってしまった者たちが物理的にそこで存在しているように見えて、ちょっとだけ“境界”とか“領域”みたいな意識は共通しつつ、全然違った作品が成り上がっているのかなっていう感じはしたんです。


笹野井 なんだろうなあ。今まで作っていた作品の傾向で行くと、頭部が三つくっついている《I,I,I》の方がわかりやすいかなあと。わかりやすいというか、自然な流れな気がするんですけど…あれは、それまではわりと自分自身の肉体と意識の分裂とか、なんか分離していく、離れていく…ここに「一個がいる」っていうよりかは「それって本当なのかな?」っていう気持ちの方があって…もうちょっとブレているというか、揺らいでいるものとして同じ像がいくつかあるような。だから二人の人がくっついているような作品を作っていたんですけど、なんかもっとドローイングではーードローイングをまず描いて、彫刻の作品にすることが多いのでーードローイングの段階ではもっと量的な仕事よりかは線の仕事の方が多くって、わたしはいつも描いている絵、というか図?を、線でしか、量的にはあんまり描かないので、線でしか描いていない、イラスト的になるんですけど。


吉野 うんうん。和室で展示されていた作品でもそうでしたよね。


笹野井 そうですね。


吉野 えっとあれは《she,she》*fig.16 かな。人物像が輪郭的に重なりあってはいるんだけど、それぞれどこも塗られてないから、重なり合わさっているだけ。で線の色も違うから、より重なり合わさっているだけっていうのがわかりやすくなっている。

fig.16

fig.16 笹野井もも《she,she》(2020)

笹野井 そのシルクスクリーンのドローイング作品のイメージは、立体の《I,I,I》と割と考え方が同じ。そのドローイングの線が重なっているっていうのをやるんだったら、まあ木彫で塊から二つを出していくよりかは…パラフィンでできている《I,I,I》は一個の原型を複製して、それを溶かしてくっつけていっている作品なので。で、あれも薄い膜でできている。無垢じゃなくて中が空洞なので、重なり合わせたときに面でくっついているよりかは線でくっついている感じがあるので、輪郭がダブっちゃうみたいな操作がやりやすいかな。シンプルかなっていうのがあって、ここ2年くらいは木彫っていう縛りを自分で作っていたんですけど、この企画ならそこ縛られなくてもいいかなとは思って…。もっとシンプルにやろうかなと思ってパラフィンって素材を使いました。

溶かしてくっつけてはいるんですけど、ちょっとずつズレた?みたいなイメージで…。


で、もう一個の木彫《心を持ってかれちゃうよ》は、普段は人間のかたち、人体のかたちを丸ごとずらしていくというか、ダブらせていったりとか、そういうことをすることで分裂するイメージを描いていたんですけど。なんか部分的に持ってかれちゃっているというか、移動しちゃっている状態でも、それってできないかなーっていうのはあって。

これは左胸の部分に棒が刺さっているんですけど、その部分の八角形みたいな楕円みたいなかたちが、その面がそのまま延びていって、人が逆さまになっている絵が描いてある面に移動したっていうイメージ?


吉野 ほー。


笹野井 それで、その移動した面にも人がいることで、人体が二つあって、分裂したものがそこに映り込んでいる。


吉野 逆さまなのとかも今考えてみると、タロットカードの逆位置みたいな。タロットカードって正位置と逆位置っていう二つの方向があってーー僕もよくは知らないですけどーーひっくり返した時に天地が逆になっているのか天地が正しい状態になっているのかを見ることで、全然違った、真逆の意味になってくる。例えば「吊された男」っていうカードがあるけれども、吊された男を逆位置にすると、吊り下げられているのとはまた別の状態に見えるし、ポジティブな状態だったものが一転してネガティブな意味に捉えられてくる場合もある。

…のように、全く別のものにひっくり返すだけで成る、っていうのを今回笹野井さんの作品の“分裂”っていう表現の仕方に繋がってくるのかなって思ったりしました。

なるほど、“分裂”と“結合”をそれぞれ隣り合わせで置いたっていう感じですかね。


笹野井 そうですね。あと上下反転しているのとかは大学院の修了作品(《人景-lake》*fig.17 )で、一人は目を完全に閉じていて、もう一人は片目だけ開いているみたいな風にして、左右で全く同じ像があるわけじゃなくてちょっと違いがある状態を作ったんですけど、それも実像と虚像とか、意識がある方と空っぽな方みたいな、ちょっと差をつけて、それでどちらかから分裂したものだったりとか、そういうイメージがあったので。それもあって逆さまにすることで虚像っぽくなったりとか、浮遊感とか。逆さまにすると足が上にくるから、立っている感がない。地に足ついてない感じが強く出るのかなっていう風に始まって。

fig.17

fig.17 参考:笹野井もも《人景-lake》(2020)photo by 小俣英彦

吉野 あ、じゃあ両方とも地に足ついてない(笑)


笹野井 そうですね(笑)


吉野 分裂した先っぽのシルエットも、実際の人物像もあれたしかアクリルか何かで。


笹野井 アクリル棒で1センチくらい浮いているように。


吉野 あの胸から棒が飛び出しているような人物の作品が《心を持ってかれちゃうよ》っていうタイトルで、その英訳が《heart flying to the south》となっていて、“to the south”、そこで“南へ”っていう言葉が付いていて、他に二つの作品にも《南へ》というタイトルが付いている。階段下のドローイングと、もう一つが我々が“トーマス”っていう風に揶揄してた、顔が描いてある棒の作品*fig.18 がありました。あれはでも“to the south”って書いてあるけど、それぞれ向いている正面が全部バラバラの方向だから、WALLAから考えて南に何かが向いているとかって話ではないじゃないですか。南ってどっから来たんですか?

fig.18

fig.18 笹野井もも《南へ》(2020)

笹野井 タイトル自体は曲の歌詞(ザ・ハイロウズ)から持ってきていて、曲の歌詞に「心を持ってかれちゃうよ」っていうフレーズはあって、その歌のストーリーの中に“南”が出てくるんですよ。その“南”っていうのが「遠いところへ」っていう意味合いで使われていて。だから方角的に南に向かうことが大事ってわけじゃなくて。


吉野 遠くの方角が南なんですね。


笹野井 南へ行っちゃうということが遠いこと、みたいな。遠くへ行っちゃうことみたいな意味合いで使われていたので、心を持ってかれちゃう先は“南”なんだけど、なんか遠方に向かって心がスーッて移動していくみたいなのを想像して。だからちょっと言葉遊びみたいな感じで、その歌全体の意味合いでどうかというよりかは、そのフレーズが引っかかりすぎちゃって。それってどういう感じ?」みたいな感じで身体感覚みたいなものに、イメージとして私が勝手に落とし込んだって感じなので…だから“to the south”っていうのは引用元にあるからそれをそのまま持ってきているんですけど。


吉野 なるほど、“高飛び”とかのイメージも南に…「南の国に行ったんじゃねえの」みたいな。ドラマでしか見たことないですけど。


笹野井 (笑)


吉野 あれ(《南へ》)もなんか…だんだんどうでもいい話ですけど…、

…恵方巻きみたいですよね。


笹野井 恵方向いて(笑)


吉野 うん、恵方巻きに顔ついてる作品が《南へ》みたいな、なんかそういう感じに…(笑)


村松 今年は南向き…(笑)


吉野 そっち向いて食べるってなった時に棒が方角に向いちゃうっていうのは、ちょっと似てますよね。でもまあ実際は笹野井さんの作品は南を向いているわけではなく、遠くを向いているイメージではあるけれど。でもやっぱり棒の先っぽに、なにか“遠く”があるっていうような、繋がりにはなってくるし…なるほど。


話を伺っていて思ったのは、《I,I,I》ではドローイングとしてやっている輪郭的な重なり、繋がりっていう部分から立体化にしてっていう話。しかもあれも輪郭的にしか繋がってないし、境界の部分でパラフィンとしてぐちゃっと繋がっているだけっていう話をされてましたけど…平面的な、二次元的な重なり方や繋がり方を立体に起こしてくるだけで、急に描写されている内容が大きく変わってくるなという感じはするんですね。

輪郭的に重なっているってドローイングとかだと、重なっている同士の輪郭の延長が透けて見えてくるから「あ、これは重なっているんだな」ってわかるんだけれども、パラフィンの作品とかって重なっているっていうよりかは、まさに結合している。結合双生児と同じ状態のように、境界が綺麗に繋がってしまっていて、なんかもうそこで描写されていることってもはや物理的な戸惑いになってくるのかなって。さっき心と体とか、精神と身体っていう話もしてたと思うんですけど、これはもはや精神と精神、あるいは身体と身体みたいな感じで、同質なものがぐっとくっつけられた時の戸惑いの方にすごく近いなとは思いました。ドローイングとかだと、重なり合っているのが仮にどちらかを精神とする、どちらかを身体とするっていうのも図式としては別に不思議じゃないと思うんですけど、三次元に起こしてきた段階で急に、それこそ型取りをしているからこそ同質のもの同士がくっついているという風に見えてしまうことに関して考えれば、ドローイングで行なっていることをただ立体に起こしたということだけには止まらない別の言葉も孕んでいるのかなって思ったりはしました。


村松 それってなんか「レイヤー、結合しちゃった」みたいな感じに今思っちゃった(笑)

笹野井 あー、なるほど。


村松 それ面白いな。視覚的には同じなんだけど、輪郭、アウトラインだけ消せないってなっちゃった状態は、今吉野くんの感想を聞いたとき思っちゃったな。


笹野井 そうですね。レイヤーは意識はするんですけど…たしかに「どっちが前で、どっちが後ろみたいな意識」はだんだん無くなっていってる感じはして。手前奥なく繋がってくる、だから“重なる”ではないのかなーって思いますね。


吉野 修了制作とかでもね、同じように「結合してしまった身体」のようなイメージを使われたりはしているので、その辺も切り分けて考えてみるのも今後のための発見には良さそうですね。

fig.18.5

会場風景2


-3. おわりに

吉野 今回お二人のそれぞれの作品を、なんとなくバーっと、ほぼ初めて(笑)聞いてみて…

僕が今回嘔吐学vol.1の企画内容としてお呼びしたところでは、お二人がそれぞれに鑑賞者の身体の動きとか視点っていうところだったり、あるいは村松さんは“フレーム”だったり、笹野井さんは“境界”“輪郭”だったりを扱っているところで、出自は違っても大きく重なるポイントは多かったので、その重なっている性質のところっていうのを同時に意地悪をして、邪魔して、同時に展示空間内で展開される作品がどのように変化していくのかを楽しみたいっていうところと、あと楽しみたいっていう欲求自体を“キュレーション”とか、“企画”っていうものを敵と捉えて批判していくっていうのが企画意図だったわけですけど、改めて自然に「二次元と三次元」とかって言葉が出てくるのは面白かったですし、お二人がそれぞれに平面的なものと立体的なものとを往還しているのはすごく面白いですよね。

今回外部からやってきた条件によって、特殊な動き方をした村松さんが、一回支持体の方にいったかと思えばイメージの方に戻ってきたという話もあれば、笹野井さんみたいに今までの作品の形式自体から大きく変更はせずに、その中でその作品自体がどういう風に見られていくのかを自然と作品側に受け入れていった反応もある。お二人が綺麗に棲み分けをしていって、結果的に笹野井さんの作品自体にある意味大きな変化というのをグンとは引き起こさなかったと思うんですよ。ミラーシートを貼ったのも作品の部分にではなくて台座の部分にだけだし。

その辺の反応の違いと、結果出てきた状態っていうのは、僕はすごい面白かったですね。


笹野井 うんうん。


吉野 あとは何か喋るべきことありましたかね。大体話したかな。

村松 喋るべきことねえ…。


笹野井 うーん…展示の初日に村松さんと話してた、なんか展示を作っていく時に、不安だった話が結構面白かったですね(笑)


村松 なんだっけ、話したら満足しちゃったなあ(笑)

いや、そう二人展の、「悩んだ」っていう最初に話した点なんですけど。なんの話だっけねえ。


笹野井 なんか…。

村松 あ、そうだ、大学的な…うーん。いわゆる大学で考えると僕が(笹野井さんより)先輩じゃないですか。だからそういうパワーバランスも関係あるのか、僕が結構展示の視線、見る位置とかを組み込んだ展示プランだったので、全体の展示設計に影響するんですけど。「こういうことやりたいんですよー」って笹野井さんに、1/10模型とかをちゃんと作ってから、言ったんですよ(笑)それに対して「いやここはわたしはこうしたいんで、その動線は…」みたいなのがなかったっていうことが僕は不安だったんですよね(笑)


吉野 じゃあ割と受け入れてもらいまくったっていう。


村松 そうそう。だから「遠慮してんのかな…」って。

全然制作とは関係ないところなんですけど(笑)


吉野 え、(笹野井さんは)遠慮してたんですか?


笹野井 いや全部「面白いな~いいないいな~」みたいな感じで(笑)…していたなっていうことに、展示初日に言われて気がついて。たしかに「そこはちょっと嫌なんだけど…」とか「そこは踏み込んでほしくない」「そこはわたしがやりたい」みたいな、その嫌な感じみたいなのをあんまり感じなくて。


村松 だから『嘔吐学』内『嘔吐学』が発生しているな、とは僕は思ったんですけど。


笹野井 さっき吉野さんは、村松さんの作品は変化した、でわたしの作品は今までの形態からは変化しなかったってことを言ってたけど、初日に言ってた村松さんは「僕はこれは一人の企画でもやれたかもしれない」って言ってて、わたしは逆に「やらなかったかもしれない」っていう気持ちは持っていたので、なんか違うのかなって思って…


吉野 村松さんが「不安に思っていた」っていうのは、二人展っていう“制約”も含めた企画として『嘔吐学』をやっているところはあるので。まず二人展であることは今後シリーズとして続けていく際にも必ず続けますっていうのは言ったと思うんですよ。二人展がなぜ『嘔吐学』にとって重要かというと、ちょうど良いんですよね。もう一人を尊重しなければならないし、その間でゲージを調整しなければならない。ちょうど良いゲージを見つけていかなければならないんだけど、三人だったら「もうちょっとヤンチャにやっていくか」って楽にできたりだとか、4人5人ならそれがもっと強くなるし。で、1人だったら、そんなのないじゃないですか。1人で勝手に、自分がきになるポイントを、せいぜいギャラリストだとか、あるいは鑑賞者のことを気遣って勝手にやっていればいいだけだけど、二人展だとなんか一緒にやろうとした時に「あれ笹野井さん、今気を使っている?」っていう風になっちゃったりだとか、逆に「気を使ってる」と片方が思うだけじゃなくて、もうバチバチに喧嘩しちゃうとか…「え!わたしこんなのやらないです!」って、うまく2人で何かをやるっていうのが、続けられなくなる状況もありうるなって思ったので最初二人展っていう風にして。で、その二人展をやっていただくんだが、そこで2人が結託しても構わないし、ただバラバラに作品を展示するってことをやってもらっても構わないっていう風に僕は考えていて。

で、今回はたしかに結託はしやすい内容ではあったんですよ。だって展示空間内に他に邪魔なものは特にないから。むしろ「閉じ込められている」以外はかなり自由度の高い企画内容ではあったので、2人で何かをやってもらうっていうのはしやすかったんだろうなって思うんですけど…。


僕はそんなことを考えていたので、笹野井さんと村松さんが結果的に結託をして、嘔吐学の中で障壁として設定していたもの、制約として設定していたものを乗り越えて逆手に取ってくれたっていうのは、僕は企画としては失敗だったという風に反省していて、今後の進行の仕方とか、僕の身の振る舞い方を考えなければならないなと思っていたんですけど…。

一方で二人展というのにある不安感みたいなのを抱いていただけたのは、そこまで大きなことではないんだけども、僕が与えた制約の一つとして、その部分だけ、一定の期間ではありながら『嘔吐学』っていうものの、展示者に対する嫌悪感の与え方には成功していたのかなって思って、僕はしめしめと喜んだりはしています。

fig.19

会場風景3

吉野 そんなところですかね。

では、これで『嘔吐学』のvol.1、「ユー体、後ケイ」は終わりということで。


この度はどうもありがとうございました。(vol.2もお楽しみに!)


笹野井 ありがとうございました。

村松 ありがとうございました…!トイレ行きたい!


おわり


5. アフターテキスト:

「嘔吐学vol.1をめぐって("嫌悪感"とは何であったか?)」

書き手:吉野俊太郎(本展企画)

僕は綺麗好きだ。あらゆるものを整理整頓清潔にしないと落ち着くことができず、そして髪の毛の一本でも見ようものなら、できる限りその場で拾う。手はよく洗うし、だからお手洗いなどで手を洗わないままにいる人を見てからは、どうにかして洗った手を再度汚さない方法で脱出するのを試みる。僕はたぶん潔癖症の類である。

ところで、そんな感じであるからか、僕は実は油画の展示に行くのがわりと嫌だった。ここで例に挙げてしまって申し訳ないのだが、2016年にトーキョーワンダーサイト渋谷(当時)であったTWS-Emergingの一展示、村井祐希さんの作品空間などでは、展示室内に縦横無尽に構成された絵具の塊を避けることに特に専念した記憶が強い。(*言わずもがなだが、交友は無いながらも僕は彼を良いアーティストだと思っている。)それは彼が「オムライス絵具」と呼んでいた乾ききっていなさそうな絵具の塊のドロドロとした質感が、それが万一着衣に触れてしまえば、跡としてわかりやすく残ってしまいそうに思わせたからだ。ちょっとした土埃ならまだしも、鮮やかな顔料が服に付着すると、それは非常に気になる汚れになってしまう。しかも落ちない。だから彼ら油画の作品をみる際は、それが迫力あるインスタレーション形式であった時は特に、接触を恐れながら会場を巡り、そして会場を出た後に深呼吸をし、出られたことに安堵する。油画に使われる揮発性油の激臭のために、僕は展示室では呼吸を控えていた。外の空気がおいしい。

…だが僕ら美術鑑賞者は普段から、「服の汚れ」が頻発する世界と、反対に、隔離空間とを行き来していたと、今になってみれば思うのだ。お気に入りの服が汚れてしまうことも嫌だが、それよりもまず展覧会というシステム自体が元来鑑賞者と作品の間の接触感染を好まない。それは鑑賞者の身を守るというよりも、価値ある作品の保護が目的とされたものである。だからこそ博物館や美術館などは小虫一匹の存在も許さない極度の潔癖空間であり、白く塗られた壁は汚れの一つも馴染ませることがない。美術を専門としてきた潔癖症気味の僕が生活し慣れたのは、どちらかというと“こちら”であると、なんとなく信じてしまっていたところがあった。

しかし、COVID-19によるパニック以降で気がつくことができるのは、油絵具の汚れとはただそれが接触の痕跡としてわかりやすかったというだけである。絵具が汚い訳ではない。ドアノブやエレベーターの押しボタンを触れることにすら注意喚起がなされる昨今で「誰もが感染者である」と考えなければならない我々こそが、汚れた世界に住まう「不浄の民」そのものである。

東京都の緊急事態宣言の発令に前後して、展示内に設置されていた足元の柵や作品を包むガラス窓の存在は美術館の外へと溢れ出した。近所のコンビニに行けば、足元に貼られたレジ待ち用のマーキングはいわゆる「ソーシャル・ディスタンス」という倫理を可視化し、レジはビニールシートで覆われて、互いの飛沫の接触を遮断する。

今、多くの清浄の地”美術館”は閉館を余儀なくされている。東京国立博物館で開催されるはずだった特別展「法隆寺金堂壁画と百済観音」は幻の展覧会として終わることが決まってしまった。百済観音はおそらくまだ、人目にも触れることなく無人の展示室内に立ち尽くしている。時を同じくして現在法隆寺の夢殿では、明治に初めて“美術関係者”によって世に解き放たれた秘仏・救世観音の春季特別開扉が5/18まで開催されている。…皮肉にすら思えないだろうか。

(2020年4月15日夜、 自宅にて 思ったので書く)


展示者:笹野井もも

村松大毅


メインビジュアル:カワイハルナ

展示内テキスト:渡辺瑞帆

企画 / サイト制作:吉野俊太郎

撮影:松尾宇人

NOBODY

スペシャルサンクス:大石一貴、大野陽生、前田春日美

会場: